生命の営みを真摯に見るとき
すべての生命体は、このプラナという気エネルギーによって造られているのです。 しかし、科学はそうした生命の原理を認めないまま、大きなジレンマに立たされているのです。 ここでは、そのへんのことを少し、述べてみたいと思います。
西洋医学はすべて、科学という基本的枠組みによって成り立っているから
その科学が持っている理論はどれも、長い試行錯誤のレールのもとです。
どうにかここまで、やってきたという感じです。
科学という学問はたとえば、1+1=2であるか、ないか、ということを実証、立証することによって世界を論じようとしています。
すべて、目にし、耳にすることができなければ、それは科学の対象とはされないのです。 ということは、科学のスタンスと生命の原理とは、相反するものだと言わなければなりません。
科学の歴史は、今より遡って少なくとも二千年位前からのものです。
科学は、それ以前の地球の様子、生命のしくみなどを、今あるデータによって、これまた理論的に立証しようとしています。 さらに、生命の発生したときの様子や、もっと前の宇宙の状態やその源なども明らかにしようとしています。
さらに、生命の発生したときの様子や、もっと前の宇宙の状態やその源なども明らかにしようと理論を構築していきます。
しかし、それらはどれも、30センチの尺(ものさし)で、地球を計ろうとするようなものなのです。
生命の発生した様子も、宇宙の営みも、それを人間が科学的思考方法で推し量ることは所詮、無理なことです。
生命は、たしかに自然の力により、生まれたものです。 しかし、この「自然の力」という箇所に、神、あるいは宇宙の知恵という言葉を入れることに科学は躊躇します。
それが科学的スタンスだからです。 だから、科学は、直感的理解によって真実を探る方法を永久に失おうとしている立場だと言えるのです。
それ故に、宇宙が偶然にはじまり、そして生命が偶然に生じたという、とても矛盾だらけの理論が、現代の科学のなかでは肯定されているのです。
ところが、科学者でさえも、生命の営みを真摯に見るとき、そこに神秘的な思いが生じ、驚きを隠せないでいるのです。
人間の身体の全細胞の数は、およそ70兆個。 それが、一体となって大きなリズムのなかで生き続けているのです。 そして、それが同じ生命を子孫として残していきます。
それが繰り返し、繰り返し、行われながら、徐々に進化を遂げてゆく、
この不思議な生命・・・。
科学者もこの思いを払拭できずにいるのです。
しかし、科学者はその立場上、今日も偶然論を振りかざして、あくまで科学の枠組みの中で生命や宇宙を理解しようと努めているのです。